諏訪大社参拝記 (8/17) -上社本宮-

車で上社本宮まで移動する。前宮と本宮の間には、神長官守屋資料館があるがこの日は月曜日で定休日。非常に残念。本宮の駐車場は十分な広さがある。ちなみに、4つの宮の駐車場は全て無料だ。すばらしい。


駐車場から歩いていくと、小さな橋がある。下には御手洗川という清流がある。この小川が、七不思議の「元朝の蛙狩り」の舞台。ちなみに写真の左手奥には法華寺というお寺がある。吉良上野介の外孫である義周のお墓、との看板があり、まあいいか、とスルーした。帰宅後に調べてみると、武田家を滅亡させた織田信長が半年程陣を敷いた場所であり、明智光秀を諸将の前で折檻したという有名なシーンが生まれたところであった。行けば良かった。。そんな織田信長だが、諏訪に攻め入った際にこの本宮を焼打ちにしている。。


小さくてみづらいけれども、境内の案内図。昔は上社前宮と同じく山の方(上方向)を向いてお参りしていたらしいが、今は神居の森を向いて(左方向)、お参りするらしい。確かに、御柱のナンバリングを考えると、昔は神体山を向いていたのだろうと思う。


橋を渡ってすぐのところにある廊下。入口御門と呼ばれ、1829年の建立。彫刻がすばらしい。真ん中にある紋は上社の御神紋。梶の葉である。下社の御神紋とは一か所だけ異なる点があるのだが詳しくは後述。


廊下の脇に御柱祭のときに用いられるメデトコ(目処梃子)が展示されていた。写真の中の写真にあるようにこれを御柱に設置する。このメデトコがあるのは上社だけであり、下社では用いられない。


全体像を何故か撮り忘れたのだが、御宝殿である。本宮の御宝殿は二棟あり、こちらは東御宝殿。西御宝殿は来年の御柱祭に向けて建て替えの用意中である。中には御神輿があるようだ。どうやらこの建物が最も本宮では重要であり、一般の神社の御本殿に相当するとのこと。七不思議の「宝殿の天滴」はこの御宝殿から落ちてくる。


この写真で言いたいのは真ん中の神主さんではなく、二つの建物。左側が東御宝殿の一部で、右側が四脚門の一部。どちらも肝心なところを写していない。悲しい。四脚門は徳川家康が寄進したもので、上社本宮で一番古い建物かもしれない。


回廊をぐるりとU字型にまわって、ようやく御社殿にたどりつく。「本殿」ではないことに注意。正面に拝殿と幣殿があり、拝殿の左側を右片拝殿、右側を左片拝殿とする造りで脇片拝殿と呼ぶらしい。先ほど述べたように昔の建物は織田信長が焼いてしまい、現在の建物は江戸時代の末期に建立された。下社でも再び触れるが、立川流の代表的建築物とのこと。


もちろん本宮にも四本の御柱がある。こちらは一の御柱。中学生ぐらいの男の子が一人でばしゃばしゃ写真を撮っていた。

前宮と同じく御朱印を頂く。帰りかけたところで、宝物殿に行っていない事に気がつき、家族を必死に説得し戻る。。鹿の角による印鑑であるとか、薙鎌などが展示されていた。あと、東郷平八郎の書などもある。日本第一軍神ということで武門からの崇拝が篤いとのこと。古事記通りならば、建御名方神に勝った建御雷神が第一軍神となって全国のどこにも鹿島神社が分社されていてもおかしくないのだが、そうでないという事実は何を意味しているのだろう。

  • 出雲系の神々の影響力が想像している以上に大きかったのかも
  • 建御名方神が諏訪に入る際に、地元の元々の神であるミシャグチ神を倒している
  • ミシャグチ神の影響力が建御名方神の後も大きかった場合、そもそも「諏訪明神=建御名方神」というわけではないかもしれない
  • 諏訪の人々にとってはむしろ元々からいた「ミシャグチ神」が諏訪明神に変容していったのかもしれない
  • しかしその場合、ローカル神(諏訪明神)が全国各地で祀られている事の説明にはならないかもしれない

なんだかとっても複雑で面白い。誰がいつ、諏訪神社を各地で建てだしたのかを調べれば、もっと面白くなるかもしれない。