熊野三山参拝記 (9/13, 14) -2日目 新宮、那智-

月曜日の朝。6時半に起床して7時から朝食。温泉粥と干物がとってもおいしかった。朝食後お風呂に入って、8時45分ごろに宿を出発。今日の予定は、新宮と那智をまわってから、新宮に戻りレンタカーを返却するというコース。


湯の峰温泉から再び国道311号で本宮へ向かいT字路で右折。熊野川沿いの国道168号で新宮へと向かう。大津荷の辺りで本宮を振り返ってみたのがこの写真。昔は本宮から川下りで新宮へと向かっていたということで、相当立派な川幅だったのだろうと想像する。
この先、北山川と熊野川が合流すると、水量がずいぶんと増えていた。川沿いに気分よくドライブすること40分ほどで新宮市に入る。帰りの電車の指定席をあらかじめ購入するために新宮駅に向かう。新人の駅員さんが発券処理をがんばっていた。


熊野速玉大社に到着。こちらは神門である。「新宮」の由来だが速玉大社で購入した御由緒によると

この神倉山に、神代の頃熊野三所大神が降臨され、その後、景行天皇五十八年の春三月、石渕を経て、現在の熊野速玉大社の社地に、初めて真新しい神殿を建てて神々がお遷りになり、その「新宮(にいみや)」にお供えを献じ、祝詞を上げて、「祀り」と「祈り」という形態を整えていったと考えられる。これが新宮の謂れで、単に旧い宮から新しい宮に遷したというだけではなく、まして熊野本宮に対する呼び名でもなく・・

太字は原文ママ。神倉山についてはこの後行くので後述。石渕というのは現在の貴祢谷(きねがたに)社のことで速玉大社とは熊野川をはさんだ対岸の地域にある。詳しくはこちら(み熊野ねっとの説明)。ちなみに本宮に対する新宮と説明する学者もいる。平安時代のある時期は速玉大社が本宮大社よりも一つ社格が上だった事もあるようなので、個人的にはこの速玉大社による説明がしっくりする。


速玉大社内の建物は大きなものが4棟。向かって左から

  • 結宮
    • 第一殿: 夫須美大神 (主神)
  • 玉宮
    • 第二殿: 速玉大神 (主神)
  • 上三殿
    • 第三殿 (証誠殿): 家津御子大神
    • 第四殿 (若宮): 天照大神
    • 第五殿 (神倉宮): 高倉下命 (たかくらじのみこと)
  • 八社殿
    • 第六殿から第十三殿

以前述べたように速玉大社の主祭神は速玉大神と夫須美大神。拝殿は結宮と速玉宮の前にある。写真では注連縄のある拝殿を中心として奥に結宮と速玉宮の屋根があることを確認できる。基本構成は本宮大社と変わらないのだが、速玉大社では第五殿の神倉宮というのが追加されていて、全部で十三殿あることになっている。神倉宮で祀られている高倉下命については後述。明治16年の花火による火災で社殿を全て消失し、現在の社殿は昭和35年に再建したもの。朱塗りの柱がきれい。
平安時代末には、速玉大神を伊邪那岐命、夫須美大神を伊邪那美命と同体とされていたようだ。12世紀ごろに造顕されたと推定される小ぶりの伊邪那岐命伊邪那美命の像の正面に、それぞれ大きな速玉大神像と夫須美大神像が神殿内に置かれている。


速玉大社の神宝館。すさまじい数の国宝が展示されている。ちょうどこの時期は和歌山県立博物館主催の特別展「熊野三山の至宝」によりいくつかの国宝は博物館に移動していたようだが、このリストを見れば分かる通り、南北朝のころの多くの国宝をみることが出来た。銀縫針なんてのもある。見終わった後に宮司さんに聞いてみたところ、国宝の速玉大神神像と夫須美大神神像は現在は県立博物館に遷されているが普段は結宮と速玉宮にそれぞれ祀られているとの事。この特別展、東京でもやってくれないかなあ。。
脱線するが、この博物館はがんばっている (和歌山県立博物館ニュース)。RSSに登録しておいた。
速玉大社でも牛王宝印と御朱印を頂く。(この後行く)神倉神社の御朱印もこちらで、ということなのでありがたく頂く。


参道の入口近くにあった八咫烏神社と手力男神社。御祭神はそれぞれ建角見命(たけつぬみのみこと)と天之手力男命(あめのたぢからおのみこと)。八咫烏神社は速玉大社末社として古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。手力男神社は延喜式紀伊國牟田郡手力神社とある由緒のある社でもともとは神門内に祀られていたのを813年に現在の場所あたりに遷ったらしい。


速玉大社から車で5分ほどで神倉神社に到着。8台ほどとめられる専用駐車場がある。御祭神は速玉大社の第五殿(神倉宮)に祀られている高倉下命。写真の奥にある鳥居は猿田彦神社神武天皇の東征で、新宮の地に上陸した際に毒気にあたっていた神武軍に、建御雷神が韴霊(ふつのみたま)という剣を遣わした相手が高倉下命である。高倉下命が剣を神武天皇に献上したところ、「私はどうしてこんなに長い間眠っていたのだろう」と言って起き上がったらしい。そして猿田彦といえば天孫降臨の際に、皇孫を先導した神様。共通点は、天照系の神の先導となっていること。土着の有力氏族が取り込まれた、もしくは征服されたという事なのだろうか。


神倉神社といえば、この急な石段。源頼朝の寄進といわれ538段ある。この場所は神武天皇が登った天磐盾(あめのいわたて)とされている。また、速玉大社でもふれたが、もともとこの地に熊野三所大神が降りたとも言われている。神倉神社の御朱印には「熊野三山元宮」と書かれている。道は意外と長かった。一汗かく感じ。途中、保母さんに連れられた元気な幼稚園児たちに出会った。後述するが、お灯祭ではこの石段を駈け下る。信じられない。


これがゴトビキ岩。原始的な巨岩信仰をあったことが納得出来るような存在感。ゴトビキの由来は何だろうか。


ゴトビキ岩から新宮市内を撮ってみた。新宮は今回訪れた町の中では最も大きな町だった。ここが中上健次の故郷なのか、とちょっと感傷にふける。左の方に熊野川の河口が見える。


2月6日に行われる「お灯祭」と呼ばれる火祭りでは、写真の鳥居の扉を閉め切った中に松明をもった人々が1200人程度集まり、扉が開かれると同時に駈け下りる。ゴトビキ岩の前で掃除をしていた方によると、駆け下りるのは若い衆で、祭のために練習もするらしい。子供や老人は後ろから歩いていくとの事。youtubeにいくつか動画があったので参考までに貼っておく。この動画では門が開くところまで再生されないが、岩肌びっしりと人がいることが分かると思う。



ここで新宮にはいったん別れを告げ、那智へと向かう。那智までは高速なのかバイパスなのか分からず、カーナビにも載っていない新しい道を通って20分ほどだった。便利すぎる。


昨日の大日越に引き続き、本日は大門坂という熊野古道を行く。那智大社まで片道30分程度のコース。新宮藩の関所跡や南方熊楠が3年間滞在した跡などを見つつ、振加瀬橋(ふりかせばし)を越えると並木道に入る。


これを見たらまた行きたくなってきた。。こうした道が600mほど続く。この大門坂の風景も那智大社所蔵の「熊野那智参詣曼荼羅」にも描かれている。時間に余裕があれば、大門坂からこの道を歩く事をぜひお勧めしたい。


昼食後、那智の滝のある飛瀧(ひろう)神社へと向かう。この神社は滝そのものを神と祀り、大穴牟遅神(大国主命)の御神体として仰がれてきた。この鳥居をくぐった先の参道は、7月14日の那智大社例大祭(那智の火祭り、扇祭)で有名である。大穴牟遅神といえば蛇、ということで滝の姿と蛇を重ねたのでは、という人もある。かつては飛瀧神社と千手堂が並立してあったが、明治の神仏分離によって千手堂は廃されてしまった。この写真の左手にある駐車場の付近が経塚で、大量の遺物が大正7年に見つかったらしい。


滝の下からも写真を撮ったのだけど、滝の迫力や美しさが10%も表されていなかったので、青岸渡寺の裏から撮った写真を代わりに。こちらの方が個人的にも気に入っている。案内によれば、落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さ10m、水量は約1t/秒 とのこと。役行者の滝行以来、修験道の道場になったともある。滝への原始的信仰からこの地が始まったと言われても素直に受け入れられる美しさ。


滝からの坂道を登る事10分ほどで、熊野那智大社に到着する。このすぐ隣には青岸渡寺があり、お遍路さんのような白装束の人たちも入り交じり、独特な雰囲気であった。


こちらが那智大社の礼殿。この奥に神殿とそれぞれの鈴門がある。本宮大社や速玉大社とは異なりお祓いを申し込まなければ鈴門の近くにはたどりつけないようになっている。神殿の配置だが、基本は他と同じ。ただ、速玉大社に神倉宮があるように那智大社には滝宮があって全部で13殿ある。建物としては正面に五棟、西側に細長い一棟。向かって右から次の通り。

  • 滝宮
  • 証誠殿
    • 第二殿: 家津御子大神
  • 中御前
    • 第三殿: 速玉大神
  • 西御前
  • 若宮
  • 八神殿
    • 第六殿から第十三殿



御県彦社。速玉大社にもあったように、ここでも建角見命を祀っている。主祭神を共有する速玉大社との特別な関係がここでもうかがう事が出来る。


今回の旅で初めてのお寺である青岸渡寺那智大社主祭神の夫須美大神の本地仏は千手観音とされていて、青岸渡寺は古くから観音菩薩との関係が深い。写真の建物は本堂で、現在のものは豊臣秀吉が弟秀長に命じて1590年に完成したもので入母屋造である。本尊は如意輪観世音菩薩。
仁徳天皇の頃(313-399年)、インドから熊野浦に漂着した裸形上人が那智の滝で修行し、現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝わるらしい。欽明天皇よりも随分前だ。その後、推古天皇勅願寺ともなっている。「紀伊風土記」によると「那智山禰宜神主なく、皆社僧なり。社僧に清僧あり妻帯あり」とも述べられているようで、元々は修験の山として開かれたのだろう。
写真にもあるように青岸渡寺は西国三十三ヶ所観音霊場の第一番札所である。堂内にて専用の納経帳を購入した。


まだ時間に余裕があったので、青岸渡寺の裏から本宮へと向かう大雲取越という熊野古道を1時間ほど歩いた。那智高原公園というところまでの往復。この公園には誰も人がいなかった。特に見晴らしが良いというわけではない。バブルの匂いがした。勘違いならごめんなさい。
どうせ歩くなら妙法山の阿弥陀寺まで行った方が良いかもしれない。阿弥陀寺弘法大師の開基と伝わり、応照上人の火定跡がある。ただ、結構な山道を覚悟しなければならない。

これにて神社仏閣は全て巡り終えた。行きと同じように大門坂を歩いて下り駐車場に到着。今度はバイパスではなく海沿いの道を使って新宮まで戻る。途中、「神武天皇東征上陸の地」という看板に興奮しつつ、30分程度でトヨタレンタカーの新宮事務所に到着する。この事務所は新宮駅から離れているのだけど、親切にもそのまま駅まで乗せていってくれた。歩き疲れていたので、正直助かった。
17:28発の南紀8号にて名古屋へと向かう。3時間14分の列車の旅。新宮駅にて買っておいた「めはり寿司」を食べる。これは高菜の葉っぱで小さなおむすびを包んでいるような食べ物。さらに、車内にて松坂の牛肉弁当を食す。昨日から食べ過ぎである。
名古屋で新幹線に乗り換えて、自宅に着いたのは23時20分ぐらいだった。電車だと6時間弱ということになる。

今回の旅行の費用だが、交通費・ホテル・レンタカーで大体55,000円ぐらい。神社で御朱印や冊子なども買ってまわったので、トータルでは6万円ぐらいだろうか。通常のツアーより随分と高いけれど、その代わり自由に出来る時間を買ったという感じ。


今回頂いた御朱印たち。上の右から、本宮大社、速玉大社、神倉神社、飛瀧神社那智大社。下のは西国三十三カ所の納経帳で青岸渡寺



牛王宝印も忘れずに。これは本宮大社のもの。88羽の烏で「熊野山宝印」と記されている。


速玉大社の牛王宝印。48羽の烏でこちらも「熊野山宝印」となっている。


那智大社の牛王宝印。72羽の烏で「那智瀧宝印」と記されている。
こうした牛王宝印は平安時代末頃に護符として登場したようだが、鎌倉時代後期あたりから起請文が書かれるようになったらしい。起請文の誓いを破ると、熊野の烏が三羽死に、自分も吐血して死ぬと伝えられている。修験者や熊野比丘尼たちによって広められたのだろう。
そういえば、88羽、48羽、72羽、いずれも8の倍数だ。どうしてだろう。もともと護符から来ているというところと関係しているのだろうか。

以上で参拝記は終了。まとめるにつれて、確認していない事、きちんと見ていなかった事がどんどん出てきてまた行きたくなってきた。次回はもっとゆっくりと時間をかけて行きたいし、熊野古道をもっと歩きたい。また、調べていくうちに修験道について何も知らない事が分かってきた。次回の訪問までにこの辺も整理しておきたい。

最後に、今回行ったところをGoogleマップで記しておく。紫のピンは、行きたかったけれど時間の都合上無理だったところだ。


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