NHK大河ドラマのオープニング

Youtubeをぼけーっと見ていたら、大河ドラマのオープニングが意外とあることを知ってしばらくはまってしまった。せっかくなのでまとめてみた。


オープニングの完成度はかなり高いと思う。iTunes Storeで購入済み。「天地人」のような変なCGはないし、NHK交響楽団とリズムのパーカッションが重なるところはぞくぞくする。オープニングの最後に山内一豊が築いた高知らしき碁盤の地図が流れるところが大好き。ドラマ自体は、まぁ、、ね。。仲間由紀恵、見たさになんだかんだ言いながら最後まで見ていた。土佐をもらった山内が、長宗我部の家臣である一領具足たちを虐殺したところは、よくぞきちんと再現したと評価している。


なんというかミーハーですいません。松嶋菜々子見たさでした。。オープニングは、まあ普通? この大河が秀逸だったのは、秀吉役の香川照之。この人が演じた秀吉の設定が一番好き。中国大返しでこんな演技をする秀吉が今まであっただろうか。


中盤からの合唱がかっこいい。どこの合唱団だろう。慶應ワグネルかな? 放映当時は高校生だったのか。。長男の義信との確執や、諏訪家との微妙な関係をこの大河で知った。義信の傅役だった飯富虎昌(児玉清)を失って悲しむ信玄のシーンが何とも印象的だった。


武田家つながり。視聴率を無視したとも思われる骨太な大河であった。なかなか仕官出来ない葛藤をよくあそこまでやったと思う。曲はめちゃくちゃかっこいい。ちなみに妻のお気に入りはこっちだ。
D


マイベスト。ぜひNHKにはこの時代を果敢にまたやって頂きたいと思う。オープニングもかっこよすぎる。最後に「後醍醐天皇 片岡孝夫」というテロップが流れるとなぜかジーンとする。高師直北条高時が好きだった。当時は大学1年生。護良親王が殺害されるシーンの辺りから、なぜこの時代を描くのが困難とされてきたのが分かってきた。去年の5月ぐらいに鎌倉に一人旅して、鎌倉宮や高時の腹切やぐらを訪問したのを思い出す。あの時代を勉強し直して、また行ってこようかな。
(追記)この曲を何度も聞いているうちに、僕が愛してやまないZガンダムのサントラと似ている部分があるのに気づいた。Zのサントラも三枝成彰が手がけている。うーむ、エヴァ鷺巣詩郎メガゾーン23の音楽もやっていたのを知った時と同じ衝撃。

Youtubeで見つけられなかった他の好きな作品は、「峠の群像」、「真田太平記」、「武蔵坊弁慶」、「跳ぶが如く」。あー、もう、時代劇チャンネルに入ってしまおうか。今年11月からは念願の「坂の上の雲」が始まる。作曲は久石譲。変なCGは多用せず、変に視聴者におもねる事もなく、骨太なオープニングをまずは期待する。

熊野三山参拝記 (9/13, 14) -2日目 新宮、那智-

月曜日の朝。6時半に起床して7時から朝食。温泉粥と干物がとってもおいしかった。朝食後お風呂に入って、8時45分ごろに宿を出発。今日の予定は、新宮と那智をまわってから、新宮に戻りレンタカーを返却するというコース。


湯の峰温泉から再び国道311号で本宮へ向かいT字路で右折。熊野川沿いの国道168号で新宮へと向かう。大津荷の辺りで本宮を振り返ってみたのがこの写真。昔は本宮から川下りで新宮へと向かっていたということで、相当立派な川幅だったのだろうと想像する。
この先、北山川と熊野川が合流すると、水量がずいぶんと増えていた。川沿いに気分よくドライブすること40分ほどで新宮市に入る。帰りの電車の指定席をあらかじめ購入するために新宮駅に向かう。新人の駅員さんが発券処理をがんばっていた。


熊野速玉大社に到着。こちらは神門である。「新宮」の由来だが速玉大社で購入した御由緒によると

この神倉山に、神代の頃熊野三所大神が降臨され、その後、景行天皇五十八年の春三月、石渕を経て、現在の熊野速玉大社の社地に、初めて真新しい神殿を建てて神々がお遷りになり、その「新宮(にいみや)」にお供えを献じ、祝詞を上げて、「祀り」と「祈り」という形態を整えていったと考えられる。これが新宮の謂れで、単に旧い宮から新しい宮に遷したというだけではなく、まして熊野本宮に対する呼び名でもなく・・

太字は原文ママ。神倉山についてはこの後行くので後述。石渕というのは現在の貴祢谷(きねがたに)社のことで速玉大社とは熊野川をはさんだ対岸の地域にある。詳しくはこちら(み熊野ねっとの説明)。ちなみに本宮に対する新宮と説明する学者もいる。平安時代のある時期は速玉大社が本宮大社よりも一つ社格が上だった事もあるようなので、個人的にはこの速玉大社による説明がしっくりする。


速玉大社内の建物は大きなものが4棟。向かって左から

  • 結宮
    • 第一殿: 夫須美大神 (主神)
  • 玉宮
    • 第二殿: 速玉大神 (主神)
  • 上三殿
    • 第三殿 (証誠殿): 家津御子大神
    • 第四殿 (若宮): 天照大神
    • 第五殿 (神倉宮): 高倉下命 (たかくらじのみこと)
  • 八社殿
    • 第六殿から第十三殿

以前述べたように速玉大社の主祭神は速玉大神と夫須美大神。拝殿は結宮と速玉宮の前にある。写真では注連縄のある拝殿を中心として奥に結宮と速玉宮の屋根があることを確認できる。基本構成は本宮大社と変わらないのだが、速玉大社では第五殿の神倉宮というのが追加されていて、全部で十三殿あることになっている。神倉宮で祀られている高倉下命については後述。明治16年の花火による火災で社殿を全て消失し、現在の社殿は昭和35年に再建したもの。朱塗りの柱がきれい。
平安時代末には、速玉大神を伊邪那岐命、夫須美大神を伊邪那美命と同体とされていたようだ。12世紀ごろに造顕されたと推定される小ぶりの伊邪那岐命伊邪那美命の像の正面に、それぞれ大きな速玉大神像と夫須美大神像が神殿内に置かれている。


速玉大社の神宝館。すさまじい数の国宝が展示されている。ちょうどこの時期は和歌山県立博物館主催の特別展「熊野三山の至宝」によりいくつかの国宝は博物館に移動していたようだが、このリストを見れば分かる通り、南北朝のころの多くの国宝をみることが出来た。銀縫針なんてのもある。見終わった後に宮司さんに聞いてみたところ、国宝の速玉大神神像と夫須美大神神像は現在は県立博物館に遷されているが普段は結宮と速玉宮にそれぞれ祀られているとの事。この特別展、東京でもやってくれないかなあ。。
脱線するが、この博物館はがんばっている (和歌山県立博物館ニュース)。RSSに登録しておいた。
速玉大社でも牛王宝印と御朱印を頂く。(この後行く)神倉神社の御朱印もこちらで、ということなのでありがたく頂く。


参道の入口近くにあった八咫烏神社と手力男神社。御祭神はそれぞれ建角見命(たけつぬみのみこと)と天之手力男命(あめのたぢからおのみこと)。八咫烏神社は速玉大社末社として古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。手力男神社は延喜式紀伊國牟田郡手力神社とある由緒のある社でもともとは神門内に祀られていたのを813年に現在の場所あたりに遷ったらしい。


速玉大社から車で5分ほどで神倉神社に到着。8台ほどとめられる専用駐車場がある。御祭神は速玉大社の第五殿(神倉宮)に祀られている高倉下命。写真の奥にある鳥居は猿田彦神社神武天皇の東征で、新宮の地に上陸した際に毒気にあたっていた神武軍に、建御雷神が韴霊(ふつのみたま)という剣を遣わした相手が高倉下命である。高倉下命が剣を神武天皇に献上したところ、「私はどうしてこんなに長い間眠っていたのだろう」と言って起き上がったらしい。そして猿田彦といえば天孫降臨の際に、皇孫を先導した神様。共通点は、天照系の神の先導となっていること。土着の有力氏族が取り込まれた、もしくは征服されたという事なのだろうか。


神倉神社といえば、この急な石段。源頼朝の寄進といわれ538段ある。この場所は神武天皇が登った天磐盾(あめのいわたて)とされている。また、速玉大社でもふれたが、もともとこの地に熊野三所大神が降りたとも言われている。神倉神社の御朱印には「熊野三山元宮」と書かれている。道は意外と長かった。一汗かく感じ。途中、保母さんに連れられた元気な幼稚園児たちに出会った。後述するが、お灯祭ではこの石段を駈け下る。信じられない。


これがゴトビキ岩。原始的な巨岩信仰をあったことが納得出来るような存在感。ゴトビキの由来は何だろうか。


ゴトビキ岩から新宮市内を撮ってみた。新宮は今回訪れた町の中では最も大きな町だった。ここが中上健次の故郷なのか、とちょっと感傷にふける。左の方に熊野川の河口が見える。


2月6日に行われる「お灯祭」と呼ばれる火祭りでは、写真の鳥居の扉を閉め切った中に松明をもった人々が1200人程度集まり、扉が開かれると同時に駈け下りる。ゴトビキ岩の前で掃除をしていた方によると、駆け下りるのは若い衆で、祭のために練習もするらしい。子供や老人は後ろから歩いていくとの事。youtubeにいくつか動画があったので参考までに貼っておく。この動画では門が開くところまで再生されないが、岩肌びっしりと人がいることが分かると思う。



ここで新宮にはいったん別れを告げ、那智へと向かう。那智までは高速なのかバイパスなのか分からず、カーナビにも載っていない新しい道を通って20分ほどだった。便利すぎる。


昨日の大日越に引き続き、本日は大門坂という熊野古道を行く。那智大社まで片道30分程度のコース。新宮藩の関所跡や南方熊楠が3年間滞在した跡などを見つつ、振加瀬橋(ふりかせばし)を越えると並木道に入る。


これを見たらまた行きたくなってきた。。こうした道が600mほど続く。この大門坂の風景も那智大社所蔵の「熊野那智参詣曼荼羅」にも描かれている。時間に余裕があれば、大門坂からこの道を歩く事をぜひお勧めしたい。


昼食後、那智の滝のある飛瀧(ひろう)神社へと向かう。この神社は滝そのものを神と祀り、大穴牟遅神(大国主命)の御神体として仰がれてきた。この鳥居をくぐった先の参道は、7月14日の那智大社例大祭(那智の火祭り、扇祭)で有名である。大穴牟遅神といえば蛇、ということで滝の姿と蛇を重ねたのでは、という人もある。かつては飛瀧神社と千手堂が並立してあったが、明治の神仏分離によって千手堂は廃されてしまった。この写真の左手にある駐車場の付近が経塚で、大量の遺物が大正7年に見つかったらしい。


滝の下からも写真を撮ったのだけど、滝の迫力や美しさが10%も表されていなかったので、青岸渡寺の裏から撮った写真を代わりに。こちらの方が個人的にも気に入っている。案内によれば、落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さ10m、水量は約1t/秒 とのこと。役行者の滝行以来、修験道の道場になったともある。滝への原始的信仰からこの地が始まったと言われても素直に受け入れられる美しさ。


滝からの坂道を登る事10分ほどで、熊野那智大社に到着する。このすぐ隣には青岸渡寺があり、お遍路さんのような白装束の人たちも入り交じり、独特な雰囲気であった。


こちらが那智大社の礼殿。この奥に神殿とそれぞれの鈴門がある。本宮大社や速玉大社とは異なりお祓いを申し込まなければ鈴門の近くにはたどりつけないようになっている。神殿の配置だが、基本は他と同じ。ただ、速玉大社に神倉宮があるように那智大社には滝宮があって全部で13殿ある。建物としては正面に五棟、西側に細長い一棟。向かって右から次の通り。

  • 滝宮
  • 証誠殿
    • 第二殿: 家津御子大神
  • 中御前
    • 第三殿: 速玉大神
  • 西御前
  • 若宮
  • 八神殿
    • 第六殿から第十三殿



御県彦社。速玉大社にもあったように、ここでも建角見命を祀っている。主祭神を共有する速玉大社との特別な関係がここでもうかがう事が出来る。


今回の旅で初めてのお寺である青岸渡寺那智大社主祭神の夫須美大神の本地仏は千手観音とされていて、青岸渡寺は古くから観音菩薩との関係が深い。写真の建物は本堂で、現在のものは豊臣秀吉が弟秀長に命じて1590年に完成したもので入母屋造である。本尊は如意輪観世音菩薩。
仁徳天皇の頃(313-399年)、インドから熊野浦に漂着した裸形上人が那智の滝で修行し、現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝わるらしい。欽明天皇よりも随分前だ。その後、推古天皇勅願寺ともなっている。「紀伊風土記」によると「那智山禰宜神主なく、皆社僧なり。社僧に清僧あり妻帯あり」とも述べられているようで、元々は修験の山として開かれたのだろう。
写真にもあるように青岸渡寺は西国三十三ヶ所観音霊場の第一番札所である。堂内にて専用の納経帳を購入した。


まだ時間に余裕があったので、青岸渡寺の裏から本宮へと向かう大雲取越という熊野古道を1時間ほど歩いた。那智高原公園というところまでの往復。この公園には誰も人がいなかった。特に見晴らしが良いというわけではない。バブルの匂いがした。勘違いならごめんなさい。
どうせ歩くなら妙法山の阿弥陀寺まで行った方が良いかもしれない。阿弥陀寺弘法大師の開基と伝わり、応照上人の火定跡がある。ただ、結構な山道を覚悟しなければならない。

これにて神社仏閣は全て巡り終えた。行きと同じように大門坂を歩いて下り駐車場に到着。今度はバイパスではなく海沿いの道を使って新宮まで戻る。途中、「神武天皇東征上陸の地」という看板に興奮しつつ、30分程度でトヨタレンタカーの新宮事務所に到着する。この事務所は新宮駅から離れているのだけど、親切にもそのまま駅まで乗せていってくれた。歩き疲れていたので、正直助かった。
17:28発の南紀8号にて名古屋へと向かう。3時間14分の列車の旅。新宮駅にて買っておいた「めはり寿司」を食べる。これは高菜の葉っぱで小さなおむすびを包んでいるような食べ物。さらに、車内にて松坂の牛肉弁当を食す。昨日から食べ過ぎである。
名古屋で新幹線に乗り換えて、自宅に着いたのは23時20分ぐらいだった。電車だと6時間弱ということになる。

今回の旅行の費用だが、交通費・ホテル・レンタカーで大体55,000円ぐらい。神社で御朱印や冊子なども買ってまわったので、トータルでは6万円ぐらいだろうか。通常のツアーより随分と高いけれど、その代わり自由に出来る時間を買ったという感じ。


今回頂いた御朱印たち。上の右から、本宮大社、速玉大社、神倉神社、飛瀧神社那智大社。下のは西国三十三カ所の納経帳で青岸渡寺



牛王宝印も忘れずに。これは本宮大社のもの。88羽の烏で「熊野山宝印」と記されている。


速玉大社の牛王宝印。48羽の烏でこちらも「熊野山宝印」となっている。


那智大社の牛王宝印。72羽の烏で「那智瀧宝印」と記されている。
こうした牛王宝印は平安時代末頃に護符として登場したようだが、鎌倉時代後期あたりから起請文が書かれるようになったらしい。起請文の誓いを破ると、熊野の烏が三羽死に、自分も吐血して死ぬと伝えられている。修験者や熊野比丘尼たちによって広められたのだろう。
そういえば、88羽、48羽、72羽、いずれも8の倍数だ。どうしてだろう。もともと護符から来ているというところと関係しているのだろうか。

以上で参拝記は終了。まとめるにつれて、確認していない事、きちんと見ていなかった事がどんどん出てきてまた行きたくなってきた。次回はもっとゆっくりと時間をかけて行きたいし、熊野古道をもっと歩きたい。また、調べていくうちに修験道について何も知らない事が分かってきた。次回の訪問までにこの辺も整理しておきたい。

最後に、今回行ったところをGoogleマップで記しておく。紫のピンは、行きたかったけれど時間の都合上無理だったところだ。


より大きな地図で 熊野三山参拝記 訪問箇所 を表示

熊野三山参拝記 (9/13, 14) -1日目 本宮-

数年前からあこがれていた熊野へついに行ってきた。天気にも人との出会いにも恵まれ、大変心に残る旅であった。友人との男二人旅である。

日曜日の朝、羽田8:30発JAL1381便にて一気に南紀白浜空港へ。今後2日間カレーを食べられないことを想定し、羽田の喫茶店にてビーフカレーを食べた。離陸は30分遅れたが10時過ぎには空港に到着し、10時半には白浜のトヨタレンタカー事務所で諸事務を完了。


とりあえず白浜周辺の観光スポットを回る。ここは千畳敷。レンタカー事務所から5分程度で到着。「太平洋に突き出た広大なスロープ性砂岩です。このデコボコの岩畳は、第3紀層のやわらかい砂岩が打ち寄せる荒波に長い間浸食されてできたものです。」と解説にある。実物はもっと面白い。


三段壁(さんだんべき)。ここは必ず行っておくべき。高さが最大で41mあるらしい。福井の東尋坊よりも圧倒的に怖い。写真の右手の方に人がたむろっているが、あの辺まで普通に行ける。そして崖の端まで行って下を覗きこめる(できなかったけど)。元々は、漁師が魚群を見張る場所として「見壇」と呼ばれていたらしい。


三段壁から車で8分程度で白浜。まだ海は温かく、写真のように泳いでいる人たちがいた。とにかく海も砂浜もきれい。奥の方に見える鳥居は熊野三所神社。行きたい気持ちもあったけれど、今回は我慢した。詳しくはこちらへ(み熊野ねっとの説明)。東京からのアクセスのしやすさを考えると、白浜には家族を連れて来てもいいかもと思った。

以上で白浜観光は終わり。時間があれば熊野三所神社だけでなく南方熊楠記念館や田辺の闘鶏神社にも行きたかったのだけど、気持ちは既に本宮へと続く中辺路に向かって急かされている。いそいそとカーナビに今日の宿を目的地に定めて出発する。この時点で11時50分ぐらいだったかな。

本宮へと向かう国道311号をドライブするのだが、今回の旅で驚いたのは、とにかく道路がよく整備されていること。そして思った程山道ではないこと。当初、自宅で地図を調べていた時は奥多摩辺りのとんでもなくくねくねした山道をイメージしていたのだが、実際には河川敷が意外と広く開放感のある道だった。想像と全く違う風景を味わうのは旅行の醍醐味。それに、もっとみんなレンタカーを利用すべき、と思った。飛行機とレンタカーのコラボだと、羽田から3時間もあれば本宮に間違いなく着く。

あと面白かったのは道路のあちこちにある「那智黒」という黒飴の宣伝。他にも特産あるよね!?と突っ込みをいれたくなるほど、どこにでも広告がある。僕自身は黒飴はむしろ苦手なので買わないつもりだったのだけど、その圧倒的なマーケティング力にやられてしまい那智で買ってしまった。妻と娘には好評だった。


この写真は気分よくドライブしているときに「滝尻王子」の看板に思わず興奮して車を駐車場にとめて、国道311号線を撮ってみたもの。空が開けていたのが想像と違って心地よかった。


こちらが滝尻王子。構図がとってもいまいちなのはご容赦。ここから先が熊野の霊域とされて、熊野御幸ではこの場所で多くの芸能や歌会が行われた。熊野古道・中辺路の起点とされている。いつか歩きたい。中辺路について詳しくはこちらへ(み熊野ねっとの説明)。


結局1時頃、今日の宿である湯の峰温泉の湯の峰荘に着いてしまった。本宮大社にお参りした後に、大日越という熊野古道を歩いて湯の峰に戻ってきたい、という旨を伝えると、親切に湯の峰温泉の駐車場を教えてくれた。(湯の峰荘は湯の峰温泉の端の方に位置している) で、こちらが小栗判官のつぼ湯。小栗判官再生の地である。小栗判官の物語について詳しくはこちら (wikipedia)。熊野詣を語る上で時宗の存在は極めて大きいものがあるが、僕がこの話が好きなのは、時宗ハンセン病(癩病)といった当時穢れとされていた人たちも積極的に救済の対象とした点にある。そういった時宗の都合(?)をなんなく受け入れる事の出来た熊野の風土も大好きだ。

湯の峰から本宮までは、イメージしていたような凄まじい山道をバスで15分ほど。昼食後、熊野本宮大社の鳥居前で、み熊野ねっと管理人の「てつ」さんと待合せをした。「み熊野ねっと」の記事には今までも何度かリンクさせてもらっているが、熊野に関するあらゆる情報が詳細にまとまっている。熊野の風光明媚なところを説明するだけでなく、歴史的背景についても解説されているのがすごいと思い、これまでも拝見させて頂いていた。そんなおり、周りに影響されて再開したtwitterで、てつさんとお話しする機会を得て、さらに今回本宮にて直接お会いすることが出来た次第。ネットで出会った人とリアルに会うのは初めて、だったのだけど、これまでもネットでは話をしていたので初めてじゃないような不思議な感じがした。本宮内を一緒にまわって、気さくに多くのことを教えて頂いた。


とうとう来た。熊野本宮大社八咫烏の幟がある。神武天皇(伊波礼毘古命、いわれびこのみこと)の東征では、八咫烏は先導としての役割を果たしている。五来重著「熊野詣」には次のような記述がある。

・・熊野神道のように神武天皇東征伝説にでる八咫烏で説明することはいとも簡単である。しかしいまの歴史学の立場からいえば、神武天皇伝説の成立する七、八世紀以前から熊野と烏の関係はできており、この烏をミサキ烏というところから、神武天皇の嚮導者に仕立てあげられたというべきであろう。そうすると熊野でとくに烏が霊鳥視された原因として、別に葬制の特異性をかんがえなければならない。そして熊野には古墳時代の古墳が存在しないことから、風葬が卓越しており、そのためにとくに烏が神聖視されたものであろうと推測される。

ちなみに、日本書紀によると八咫烏は東征後、恩賞を受けている。その子孫は、葛野主殿県主部(かずののとのもりのあがたぬしら)というらしい。とりあえず、記紀以前から烏を神聖視し畏れるグループが熊野にはいたのだろう、という事にここではとどめておく。八咫烏と太陽とのつながりについても面白い話がある。確かに幟では赤い丸の中に黒い烏。詳しくはこちら(み熊野ねっとの説明)。


鳥居をくぐり階段を上ると、神門がある。本宮大社では神門内は撮影禁止なので注意。てつさんが社務所にかけあって下さり、プライベート用途では撮影を許可してもらった。もちろんここには載せる事は出来ない。
社殿は向かって左から次の通り。

  • 西御前
    • 第一殿 (結宮): 夫須美大
    • 第二殿 (速玉宮): 速玉大神
  • 証誠殿
    • 第三殿: 家津御子大神 (主神)
  • 東御前

第一殿と第二殿は相殿となっているので建物としては全部で三棟。後述するが、明治22年以前は本宮大社は別の場所にあった。水害のために現在の場所に移ってきた。本来は全部で十二殿あるのだが、第五殿以降は昔の場所(大斎原)に祀られている。てつさんによると、現在の社殿は水害前の建築材を再利用しているとの事。確かに古く見える。神門をくぐった目の前が本宮大社主祭神である家津御子大神を祀っている証誠殿。ちなみに礼殿は西御前の前にある。


本宮大社で牛王宝印(ごおうほういん)と御朱印を頂き、本宮大社が元々あった大斎原(おおゆのはら)へ向かう。この写真は途中にある伊邪那美命の荒魂を祀ってある産田社(うぶたしゃ)。てつさんに教えて頂いた。


そして産田社から大斎原を眺めたのがこの写真。とんでもなく大きいこの鳥居は日本一の高さらしい。平成12年に建てられて高さは33.9mとのこと。写真ではそう高くは見えないかもしれないけれど、近づくにつれてその大きさに驚かされる。鳥居の奥のこんもりとした森が聖地となっている。こちらも鳥居の奥は撮影禁止となっている。非常に清浄な雰囲気であった。一人旅だったら30分ぐらいぼーっと出来るような場所。本宮大社にお参りしたのならこちらにも行った方が良いと思う。


大斎原から熊野川に出てみた。このように非常に開放感あふれるところに旧社地がある。ずっと昔は大斎原のすぐ脇に船着き場があったほど川幅があったと、てつさんが教えてくれた。この熊野川と大斎原を挟むようにして流れている音無川には全く水はなかった。五来重著「熊野詣」によると、

・・熊野の御祭神は十二所あって集合祭祀であるから、熊野川、音無川、岩田川それぞれの上流から移し祀られた神々が、この三川合流の中州にあつまったことはまちがいあるまい。

これを背景とすると、本宮大社は昔、熊野坐(くまのにます)神社と呼ばれていて御祭神が熊野坐神(くまのにいますかみ)であった事をすんなり納得できるような気もする。ただ、現在の御祭神である家津御子大神とはどのような神様なのか、という疑問が自分の中では残ったままだ。平安時代前期の作とされる家津御子大神の神像(国宝)があること、平安時代前期から本地垂迹説(家津御子大神は阿弥陀如来を本地とする)が盛んになってきたこと辺りを今後の課題に残したいと思う。


てつさんに大日越の登山口まで案内して頂いた。ここでてつさんとは別れる。来年こそ長期休暇を取って再訪問することを約束する。案内して頂き本当にありがとうございました。お話しできて大変楽しかったです。


熊野古道・大日越の風景。実はこれは下りの途中で後ろを振り返って撮った写真。上りの途中、月見ヶ岡神社があったのだが、きつい上り坂で息が上がってしまい撮影どころではなかった。。友人がいなければ途中で引き返していた可能性もある。湯の峰温泉まで大体1時間かかった。湯の峰王子社跡にももちろん行った。


お世話になった湯の峰荘。清潔感あふれ、料理もおいしかった。温泉は長湯できるタイプで、草津のような攻撃性はない。間違いなく次回もここに泊まると思う。

というわけで一日目が終了。長い一日だったが、明日はもっとハードスケジュールだ。11時過ぎには就寝。

熊野三山参拝の予習

9月中旬に念願の熊野にようやく行ける事になった。本当は10月あたりに長期休暇を取って、ゆっくりとまわる予定だったのだけど、今やっている仕事的に無理。しかしあきらめきれないので、今回はまずは一泊二日で行く。

まずは熊野三山の基本情報。リンク情報のみを記しておく。

次に主祭神についてまとめる。時代によって変遷があった。高田崇史の「QED 熊野の残照」できれいにまとまっていたので転載。ただ、オリジナルでは速玉大社の御祭神として速玉大神しかあげられていなかったので加筆した。

那智大社は元々は滝への信仰がオリジナルにあるはずだが、文献への初見は比較的新しい。1082年の「扶桑略記」に、熊野山大衆が新宮・那智の神輿をかついで上洛した、という記事があるようだ。本宮大社主祭神であったとも言われている夫須美大神が那智大社主祭神に移動している。また、少なくとも863年から940年の間は、速玉大社の方が本宮大社より社格が一つ上だったようだ。

次に、これらの神々がどのような神々と同体とみなされ、本地垂迹説から本地とされたのかまとめる。

熊野那智大社のオリジナルと思われる那智の滝は次のように比定されている。

熊野は、神武天皇の東征の舞台でもある。手元に日本書紀がないので、また今度まとめようと思う。それにしても熊野はすごい。このようにまとめてみただけでも、神々のスケールがすさまじく大きい。

*1:「別冊太陽 熊野」において小山靖憲氏(帝塚山大学教授)は、「なお、熊野の固有神を記紀神話に結びつけ、家津御子神素戔嗚尊、(中略) に同定する説が近世以降にみられ、ここにも出雲神話の解釈が影響しているが、このような新しい説は無視してよかろう。」と言っている。新しい説と言っても平安時代末期には一般的に言われていたようなんだけど。。

諏訪大社参拝記 (8/17) -下社秋宮-

春宮からアップダウンな道を行くこと5分ぐらいで秋宮に到着。この時点で午後1時半。8時過ぎに車の中でおにぎりを一個食べてから何も食べていない。いや、途中のコンビニで買ったカステラをみんなで食べて糖分を補った。


秋宮の全体像である。今回の4つの宮の中では最も混んでいた。駐車場もそれなりにいっぱいだが、境内の外にも第二駐車場、第三駐車場とあったので、メジャーな祭礼の時でなければ問題なさそう。


どーん。立派な注連縄。神楽殿である。この神楽殿にお参りをしてこの後ろにある社殿に行かない人が多いらしく、ボランティアのガイドが「後ろもどうぞー」と呼びかけていた。こうした隅々まで知ってもらおうというやる気は非常に好ましい。この注連縄だが、出雲から職人を呼び寄せて作ったようだ。





楽殿の注連縄のアップ。太い。右は神楽殿に展示されていた御柱を引っ張る綱。蛇のようにとぐろを巻いている。


神宮の遥拝所。きっと伊勢神宮の方向を向いているのだろう。次回はコンパスを持っていこう。こういったところが下社が皇別と呼ばれる所以なのかなあ、と思ったり。上社にはなかったはず、きっと。


鹿島社。御祭神はもちろん建御雷神。諏訪大社の御祭神の建御名方神を諏訪に追い込んだとされる敵方の神である。もちろん上社にはない。ちなみに、香取神宮には、諏訪神社末社がある。
証拠写真


楽殿の奥にある御社殿。上社本宮と同じく片拝殿の造りである。現在の建物は、立川流の初代棟梁である立川和四郎富棟(諏訪出身)によって建立された。ちなみに神楽殿立川流二代目によるもの。この二代目は上社本宮にも関わっている。


御社殿のアップ。美しい。じーっとぼーっと見ている人が何人かいた。


御社殿の奥にある御宝殿の一部が写っている。そう、上社本宮の時にも述べたが、ここにも御本殿はない。下社ではこの御宝殿の奥の御神木を御神体として祀っている。


これまたいかにも皇別という感じの末社伊勢神宮から天照大神を祀っている。上社にはこうした形ではなかったはず。上社本宮には摂末社遥拝所というのがあるのでその中に含まれている可能性はある。また大国主命社というのが上社本宮にはあった。


お参り後に鳥居の方を撮ってみた。木々が美しい。駐車場はこの写真の左手奥にある。右手奥の階段をくだったところには宝物殿がある。源頼朝の下文や平安時代の鏡などが展示されている。上社本宮にもある宝物殿も含めて、コンパクトにまとまっているので、訪問されることをお勧めする。


宝物殿の後に、御朱印を頂いた。これらが今回の成果である。右から上社前宮、本宮、下社春宮、秋宮。御朱印をもらったときに、4つ全てお参りされたという事なので、と落雁のお菓子を頂いた。感激である。

参拝記としてはこれにて終了。この後は秋宮の参道沿いの蕎麦屋で遅い昼食をとった。オルゴール屋にも寄った。間欠泉にも寄って足湯にもつかった。帰りの中央道は20kmの渋滞に巻き込まれて、家に着いたのは20時過ぎであった。次回は日帰りではなく一泊しようと思った。

諏訪大社参拝記 (8/17) -下社春宮-

上社本宮から湖沿いの道を通って、下社春宮に到着。娘が「あといくつ?」としきりに確認するようになってきた。気持ちは分かる。この日は結構日差しの強い日であった。


上社春宮に到着。御社殿は修復工事中であった。社務所の方によれば、今年10月ぐらいに完了するみたいだ。


鳥居をくぐってから参道を振りかえる。約800mあり昔は春宮専用道路だったようだ。また、大祝金刺一族などによる流鏑馬を競った馬場でもある。今は、このまっすぐな道路以外、全く面影はない。道路中程にある建物は橋である。重要な建物であるので後述する。


正面にあるのが神楽殿。工事中の白幕の後ろには、御社殿、御宝殿などがある。右手の方には、春宮の一の御柱が見える。





左が下社の御神紋である。右は上社の御神紋。そう、下社の御神紋は足の数が5本で、上社の4本より1つ多い。一般に上社は神別で下社は皇別と分類されるようだが、足の数が異なるのはなぜだろう。


春宮の西方境内にある浮島。要は川の中の中州である。どんなに大水が流れても流されない、ということで下社の七不思議の一つになっている。この鳥居をくぐった20mぐらい先に小さな社がある。


これが下馬橋である。1730年代に修復されたもので、下社では最も古い建物とのこと。ここで駕篭や馬から下りて身を清めたらしい。確認していないけれど、御手洗川の上にかかっているようだ。溝蓋があるのだろうか。秋宮と春宮とでは周期的に神様が遷座する。2月から7月は春宮で、8月から翌1月は秋宮に鎮座している。そのときの遷座祭ではこの下馬橋を神輿が通る。

番外編。諏訪大社は一部の方々によって聖地として巡礼されている。男二人旅、男一人旅、のような方々を何組か見かけた。




東方風神録が元ネタのようだ。左側は「オンバシラー」と攻撃しているのかな? 右側のカエルの目のような帽子をかぶっている子が描かれた絵馬もたくさんあった。「エンドレスエイトが早く終わりますように」。。そうだね。8月1日時点では、僕も神に願いたい気分でしたよ。

諏訪大社参拝記 (8/17) -上社本宮-

車で上社本宮まで移動する。前宮と本宮の間には、神長官守屋資料館があるがこの日は月曜日で定休日。非常に残念。本宮の駐車場は十分な広さがある。ちなみに、4つの宮の駐車場は全て無料だ。すばらしい。


駐車場から歩いていくと、小さな橋がある。下には御手洗川という清流がある。この小川が、七不思議の「元朝の蛙狩り」の舞台。ちなみに写真の左手奥には法華寺というお寺がある。吉良上野介の外孫である義周のお墓、との看板があり、まあいいか、とスルーした。帰宅後に調べてみると、武田家を滅亡させた織田信長が半年程陣を敷いた場所であり、明智光秀を諸将の前で折檻したという有名なシーンが生まれたところであった。行けば良かった。。そんな織田信長だが、諏訪に攻め入った際にこの本宮を焼打ちにしている。。


小さくてみづらいけれども、境内の案内図。昔は上社前宮と同じく山の方(上方向)を向いてお参りしていたらしいが、今は神居の森を向いて(左方向)、お参りするらしい。確かに、御柱のナンバリングを考えると、昔は神体山を向いていたのだろうと思う。


橋を渡ってすぐのところにある廊下。入口御門と呼ばれ、1829年の建立。彫刻がすばらしい。真ん中にある紋は上社の御神紋。梶の葉である。下社の御神紋とは一か所だけ異なる点があるのだが詳しくは後述。


廊下の脇に御柱祭のときに用いられるメデトコ(目処梃子)が展示されていた。写真の中の写真にあるようにこれを御柱に設置する。このメデトコがあるのは上社だけであり、下社では用いられない。


全体像を何故か撮り忘れたのだが、御宝殿である。本宮の御宝殿は二棟あり、こちらは東御宝殿。西御宝殿は来年の御柱祭に向けて建て替えの用意中である。中には御神輿があるようだ。どうやらこの建物が最も本宮では重要であり、一般の神社の御本殿に相当するとのこと。七不思議の「宝殿の天滴」はこの御宝殿から落ちてくる。


この写真で言いたいのは真ん中の神主さんではなく、二つの建物。左側が東御宝殿の一部で、右側が四脚門の一部。どちらも肝心なところを写していない。悲しい。四脚門は徳川家康が寄進したもので、上社本宮で一番古い建物かもしれない。


回廊をぐるりとU字型にまわって、ようやく御社殿にたどりつく。「本殿」ではないことに注意。正面に拝殿と幣殿があり、拝殿の左側を右片拝殿、右側を左片拝殿とする造りで脇片拝殿と呼ぶらしい。先ほど述べたように昔の建物は織田信長が焼いてしまい、現在の建物は江戸時代の末期に建立された。下社でも再び触れるが、立川流の代表的建築物とのこと。


もちろん本宮にも四本の御柱がある。こちらは一の御柱。中学生ぐらいの男の子が一人でばしゃばしゃ写真を撮っていた。

前宮と同じく御朱印を頂く。帰りかけたところで、宝物殿に行っていない事に気がつき、家族を必死に説得し戻る。。鹿の角による印鑑であるとか、薙鎌などが展示されていた。あと、東郷平八郎の書などもある。日本第一軍神ということで武門からの崇拝が篤いとのこと。古事記通りならば、建御名方神に勝った建御雷神が第一軍神となって全国のどこにも鹿島神社が分社されていてもおかしくないのだが、そうでないという事実は何を意味しているのだろう。

  • 出雲系の神々の影響力が想像している以上に大きかったのかも
  • 建御名方神が諏訪に入る際に、地元の元々の神であるミシャグチ神を倒している
  • ミシャグチ神の影響力が建御名方神の後も大きかった場合、そもそも「諏訪明神=建御名方神」というわけではないかもしれない
  • 諏訪の人々にとってはむしろ元々からいた「ミシャグチ神」が諏訪明神に変容していったのかもしれない
  • しかしその場合、ローカル神(諏訪明神)が全国各地で祀られている事の説明にはならないかもしれない

なんだかとっても複雑で面白い。誰がいつ、諏訪神社を各地で建てだしたのかを調べれば、もっと面白くなるかもしれない。